志知城の創築は鎌倉時代の初め、菅和泉守道忠によるといわれている。
「太平記」に志知の武士が南北朝初期動乱のとき、宮方(南朝)に従い淡路西浦から、京都へ出陣したことが記されているが、その武士集団の拠点が志知城であるといわれる。
南北朝時代以後は足利将軍に与力した菅氏は、淡路守護細川氏にも従ったという。
室町末期は三好氏に味方し、その後、野口孫五郎長のとき、羽柴秀吉による淡路攻略(天正9〜10年)によって降伏開城した。
そのあと黒田孝高があずかり、天正13年より加藤左馬助茂勝(後に嘉明)が15000石の城主として入城、留守居役が家老堀部市右衛門であったといわれている。志知城は、瀬戸内海に出る、淡路水軍の重要基地であった。九州遠征(天正14〜15年)、小田原攻や(天正18年)、朝鮮出兵(文禄元年に始まる)には、水軍を編成して出陣した。
文禄4年に嘉明が伊予(愛媛県)へ転封のあと、当領は秀吉の直轄領となり、代官石川紀伊守光遠・三宅丹波守が入城し、川口の叶堂に新城を築き志知城は廃された。
本丸台跡は、一辺約72mの方形状で、高さは約55m曲輪の縄張り構成は不明である。本丸台の北隅が天守台とも櫓台跡ともいわれ、南部に一段低くなった一郭は「ニの丸」とよばれている。堀は、南北の長さ約130m、幅約15m。本丸を広く取り囲むように外堀が残っていたが、今はその旧態が見られなくなっている。石垣は確認されていない。
この城郭は、近世初期の形式をもつ水城的な平城で、加藤氏入城後改造されたものであろうとされている。
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